What is continuism

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我らが希望の灯台はやがて角灯の火になり、すべての差異を均すだろう。

継続主義とは、「言語化不可能なモノを言葉を使って理解しようとする」取り組みである。

人間は、あらゆる意味での二元論的な対立に隔たれている。二元論は間違いではないしむしろ正しい分類だが、どちらかに答えがある訳ではもちろんない。二元論の間にあるモノにしか答えはないはずだ。
二元論は正しいが、本質的な対立は二元論そのものではなく二元論の間に陰関数的に、暗黙的に存在していて、この領域において言語的な表現はあまり役に立たない。そして、言葉にできないモノを理解することはできないので、そもそも道具を間違えている限りはこの暗黙的な領域を取り扱うことができない。

メタ認知的な二重思考がこの暗黙的な領域の取り扱いに便利だし、当然ながら完璧な道具ではないものの現状では唯一「言葉にできないモノを推論で扱える」という点で有利である。

なので、我々はここに「二元論的な世界観」を宣言し、同時に二元論を否定するのだ。なぜなら、全ては間違いであり、皆ともに愚かだからだ。

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ヒトは物語を作る事によって繁栄を極めてきた。多神教から始まり、一神教やナショナリズム、そして今ここで読んでいる継続主義さえ、すべては物語であり、ナラティブに過ぎない。
しかし、そんな物語の中に「これは物語であり、要は嘘である」と書かれたモノはあっただろうか?いや無い。あったら興ざめである。実際の所、人々がこんなにも愚かなのは「ナラティブを信じているから」に他ならず、人々がこんなにも賢いのは「ナラティブを共有しているから」に他ならない。
もしも我々が「ナラティブを信じる」という行為自体を懐疑し、同時に信じているかのように共有する事ができれば。我々が「メタ認知」という瞼を開きさえすれば、賢さを失わずかつ愚かさを捨てる事ができる。少なくとも、そんな推論ができる。

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仮に我々はナショナリズムを信じているモノとしよう。
ナショナリストは得てして現実を見る事ができない。彼の国がどんな国であれ、どの国も世界の中心に立つには力不足だからだ。にもかかわらず、もし彼が公然と祖国を「我が国はそんなには素晴らしくない!世界を支配などできないのだ。」と批判しながら、それでも世界の中心に立てるような国にしようと尽力するならば、彼の国は世界の中心に立つに相応しいくらいの国には成れるに違いない。

あるいは、これがレアル・ポリティークの政治空間でも良い。
いわゆる現実政治は実際の所「感情が政治を支配する」という現実だけはピンポイントで見れない眼鏡をかけた考え方だが、もし彼が公然と「政治は感情が支配する、元来不合理なモノだ」と主張しながら、にもかかわらず理性的な政治空間を成立させようと尽力したならば、彼の努力が成功した場合に限って「理性による政治ゲーム」の空間は成立するかもしれない。少なくとも、全く無視するよりマシだ。

このように、そもそも我々が推論に使う「言語」という道具自体があまり完全なモノではないのもあって、言語的には矛盾するような行いが実際には現実に対して適応的な反応である事は枚挙に暇がない。

言語を使う限りは不完全であり、他の道具もない。要は、我々は"愚か"なのだ。
そして、にもかかわらず"愚か"である事を自覚する事によってのみ、我々はこの言語による制約の頸木から解き放たれ、いま地上を支配するあらゆる「愚かな決断」と、愚かな決断によって犠牲になる多くの人命やモノを救う事ができる。

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現代でメジャーな考え方に「現実主義」なるモノがある。つまり、自分の視界の狭さという"非現実"だけは都合よく見る事ができない、文字通り近視眼的なイデオロギーである。
しかし現実主義はまだマシな試みではあった。建前上だけでも「愚かな決断をやめて、もっと賢く現実を見た行動をしようよ」と呼びかけたのは大きな成果だ。

もちろん、現実主義以下の価値しか持たない思想はいくらでもある。同時にそんな数多のイデオロギーにもそれぞれ歴史上果たした役割というのはもちろんある。しかし、足りなかった。それがファシズムでも、共産主義でも、あるいは神権政治でも、彼らは彼らなりの目的と成果があった訳だが、仮に政治闘争で完全に勝利した先ですら真に求めていたモノを達成できた訳でもなければむしろ"極端な行動"が極端な結果を招き、結果としてこれら極端なイデオロギーは得てして内部崩壊や外部からの介入で崩壊する。ナチスドイツも崩壊したし、ソ連も崩壊したし、太平天国も崩壊した。

これらの蟲毒をどうにか中和しようと試みた取り組みだってもちろん存在する。民主主義だ。今まさに崩壊しようとしている。「西側は崩壊の崖っぷちにあり、ソ連はその一歩先を進んでいる!」というアネクドートがあるが、本当に一歩後ろを進んでいただけだった。 このまま行けば恐らく地球という大地を次に支配するのはデジタル権威主義だろう。当然ながら、彼らも例に漏れない。デジタル空間のポジティブ・あるいはネガティブな情報に対する正のフィードバック。要は振れ幅の最大化は、いずれ党とか指導部の意思決定を鈍らせ、やがてはハルシネーションの中で精神を腐らせ、増幅する社会不安によってまた内戦の時代に戻るだろう。SNSも増幅するし、統治AIも増幅するし、LLMだって増幅する。

あるいは、こういった取り組みを永遠に続ければ、やがては局所的にかなり安定した体制が築かれるのかもしれない。にもかかわらず、我々はそんな量の血を支払えないし、あるいは人口を増やし維持するための時間も資源も地球全体にすらもはやあまり残ってもいない。

解決策は単純かつ簡単で、かつ難しい。単に我々自身が行ってきたこれらの愚行から我々自身の愚かさを認識し、単に自分の愚かさを前提にして賢く振る舞うようにすればいいだけの話だ。
当然の話だが、我々についているのは一対の目と耳に、口や四肢、そのほか物理的に対した量もないセンサーだけだ。こんな惨めな状況で、どうして神の視点から賢く行動できるのだろう?にもかかわらず、現代人の多くは神のような傲慢さで、あるいは開き直って愚かな決断をしてもいいや。と、真の意味で愚かな行動を取っている。

繰り返すが、こういった取り組みを永遠に続ければ、やがては局所的にかなり安定した体制が築かれるのかもしれない。にもかかわらず、我々はそんな量の血を支払えないし、あるいは人口を増やし維持するための時間も資源も地球全体にすらもはやあまり残ってもいない。
我々はもっと賢く行動すべきだ。「賢く行動しよう」とい訴えさえ退けられるのなら、その先に待っているのは全くの破滅である。文字通りの退行なのだから。

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これらの事態に対してすぐさま取れる解決策に「エリート主義」がある。これを否定するつもりはさらさらないし、むしろ過渡期の精度としては致し方ない措置に思える。
しかし、繰り返すが我々は"愚か"である。当然どんなにエリート主義を極めて人数を犠牲にして純度を高めた所で、その犠牲にした人数によって賢さだけではなく別の方向での愚かさも濃度が上がる。少なくとも局所的な成功を収めた制度である民主主義の真反対の事をするのだから、無理もない。
だからこそ、エリート主義に対しては「限定的に受容し、かつ段階的に拒絶すべき」である。エリート主義もまた愚かな決断に過ぎず、にもかかわらず局所的に取ることができる解決策としては捨てがたい程には有能だからだ。一方で、過渡期で欠点も多い制度をずっと使い続けるのは、度を越して愚かである。我々はエリート主義を採用するにもかかわらず、その先に「真の意味での平等を追求」すべきだ。

平等とは何だろうか?機会の均等?成果の均等?必要に基づく受け取り?どれも正しいが、同時に少しずつズレている。
実際の所、全ての平等を保障するのは能力であり、能力がない集団は単に飢えて死に絶えるのみである。能力のある集団だけ残しても別の理由で死に絶える事は斯くにも及ばないが、実際の所真の平等とは「能力における平等」であって、パンが足りないならパンを自分で作れる能力を持たせる事だ。
第一次大戦において、機関銃はどんなに高貴な身分であろうと、あるいはどんなに卑しい身分でも、平等に殺す事ができた。工場労働では技術者でもない限りどんな人間も二本の手がある労働ユニットの一つに過ぎなかった。現代における身分の平等を生んだのは公民権運動だろうが女性の人権だろうが結局は「戦争の副産物」であり、真の意味で能力における平等を達成できない限りは「我々は平等である」と宣うのは単なる虚言か過度な理想主義的妄想にすぎない。
生産手段の確保という意味で社会主義は多少いい線を行っていたが、結局は能力の末端・表出に過ぎない成果に固執する事はあまり賢くない。

とはいえ、当然ながら能力自体を作ることはとてもじゃないが簡単な事ではない。だからこそ、我々はその過渡期においてはエリート主義を採用せざるを得ないし、それでも段階的には卒業し拒絶すべきだ。

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そして、驚くべき事にここまで読み進めたか、あるいは単に途中で読むのをやめてしまった人々は、ほぼ間違いなく異論を持っているか、さもなくば誤解する事を通じて自分と同じ意見だと思い込んでいる。
異論が出るのは当然である。なぜなら我々全員は愚かだからである。
ある集団においてもし異論がまったく出ない・もしくは出るにしてもすぐに否定されるような環境があるなら、ほぼ間違いなく不健全な言論空間だ。当然ながら言語は不完全な道具であり、故に間違った事を言う事も簡単だし、むしろ間違っている事を正しいかのように文法上組み立てる事も容易である。
単に議論をして精度を上げよう。などと言うつもりもない。しかし、証明すべきだ。
言語はシンボル表現として、共有の道具としてはそんなに悪い道具でもない。見てわかる画像だとか実物といったモノで表現するならさらに伝わりやすい。当然どんな媒体でも一定の情報損失は生まれるが、我々の脳ですら多少の情報損失なら個々人で修正・補完できる。証明も反証も不可能な事実にいかなる価値もありはしないし、同時に証明や反証ができる主張ならば、少なくとも一時的に信じる仮説としては比較的優秀な部類として入る事ができる。

また、何より重要な指針として、諦めてはいけない。
確かに我々は情報的に死よりも深い溝で隔てられている。しかし、だからこそ共有できる情報には、たとえそれが嘘や間違いであっても価値がある。もし共有できた情報が事実であり本当なら、もっと価値がある。我々は愚かである。この事実を如何様に取ろうと世界に何も影響を及ぼすことはないが、少なくとも我々は既知の存在の中ではかなり賢い方だし、しかも自己改善能力という稀有な能力を持っている以上、もっと賢くなることができる幸運な存在だ。

異論が出るのは当然で、なぜなら我々全員は愚かだからである。故に、我々は異論を出す事でより優れた決断をできるようになる。

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上にも述べたのと同じ事実に基づき、不確実性に基づく分派や意見の違いは、致命的に愚かでない限りは許容だけではなく歓迎されるべきだ。
もちろん、致命的に愚かな決断や致命的に愚かな違いは確かに存在する。そんなモノは単に議論程度の活動でも取り除く事ができるし、もし自己改善を拒否するような事態があるならそれはもっと愚かだから許容されるに値しない。にもかかわらず、そもそも我々は情報的に死よりも深い溝で隔てられているのだから、当然我々の取る決断や行動、意見には不確実性があらゆる段階において入り込む。分派や意見の相違が起きるのも無理はない。

そして何よりも重要な根拠として、ある程度の分派や相違はむしろ愚かさを減衰させる事ができる点が挙げられる。事に寄っては、ある程度の分派や相違は許容だけではなく歓迎されるべきだ。
我々の注意や意識と言ったモノは、基本的に単一もしくは少数の概念や対象にしか向く事ができない。もし多数・多種類のモノを扱っているように見えるとしても、それは単に抽象化された概念を扱っているだけだ。もし突拍子もない相関関係がテーマにおける本質ならば、そんなモノを少数の注意で発見する事は不可能だ。多人数かつ多種類の注意で見なければ発見できない事実は枚挙に暇がない。

不確実性に基づく分派や意見の違いは、致命的に愚かでない限りは許容だけではなく歓迎されるべきだ。なぜなら、我々が愚かである一因には、「単一・少数の概念にしか注意を向けられない」という物理的制約があるからである。

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メモ: 次に書くなら何だろうね?